2010年06月20日

天才起業家 和佐大輔からメッセージが届きました

天才起業家 和佐大輔からメッセージが届きました

アフィリエイターによるアフィリエイターのだめのアフィリエイター

マニアルです。


詳細はこちらからご覧ください。


posted by 3020kuma at 05:27 | ☔ | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月14日

リオちゃん じいじの電子書籍完成したよ

リオちゃん 先週、じいじは今までいろいろ遊びほうけていたことを

本に書き出しただろう。そうしたらなかなか止まらなくなっちゃって、

ついでだから、電子書籍にしてみたよ。

ちょっと、リオちゃんには難しいので、あとでママに読んでもらって

ね。


本の題名は“遊びの履歴書”ってつけたよ。

asobi001.jpg




遊びの履歴書


タグ:電子書籍
posted by 3020kuma at 05:51 | ☔ | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月10日

リオちゃん じいじは遊びの天才だよ。

リオちゃん じいじっていろいろ遊ぶの好きだから

リオもよく一緒に遊んだね。

じいじって遊びの天才じゃあないかと思うんだ。

どのぐらい遊んだか自分でもわからなくなりそうだから

本に書いて見ることにしたよ。

少しずつ紹介するから楽しみにしていてね。


  遊びの履歴書

            ペンネーム  時生成裸 

 まえがき

知人から“作品市場”と言う電子書籍を紹介された、と言うより彼の作品が掲載されたから見ろと言う、かなりの力作で感じ入ってしまった。
“ビバ!リフォーム住宅”と言うドキュメントタッチのものだった、楽しいエピソードを交えたエッセイを拝読した。
ついでに他の作品にも目がいき“インドよりの通信”“ジョージ・ハリスンのインド大好き”を読ませていただいた。
自分も40年まえインドを一周したことを思い出しながら大いに楽しませてもらった。
そのうち、あっちこっち検索していたら出会いサイトに入り込んでしまった。
この歳で今更、と思ったがサンプルを参照できると言うので、ちょいと除いてみたくなった、なかなかみんな真剣で、まじめに第2の人生を考えている内容だった。
つい自分を省みて24年間独り身の生活をしていた為、忘れかけていた家庭のぬくもりを思い出してしまった。
案内にしたがって登録してみたのだが。
・・・どうせ駄目だろうと思っていたのに、早速、メールが飛び込んで来た。
“自分は50年も遊びほうけて来たのだから”と、ちゃんと書いて置いたにも関わらず・・・・。
“一度しかない人生だから好きなことをやれただけ幸せじゃないの”と、励ましの言葉まで頂いてしまいました。
しかし自分で考えても半端じゃなかったと思える“遊びの履歴”。
いっそのこと思い出すままにエッセイにまとめてみようと思った次第です。
そして、こんなに遊びほうけた人間でも結構面白そうでいいじゃない、と納得してくれる人がいたら、今度は独りじゃなく二人で遊ぶのも楽しいかなと・・・

遊びの履歴書 第1部

憧れのヒマラヤへ

昭和39年 東京オリンピック開催
この年5月横浜の大桟橋からフランスの荷客船“メッセンジャー・マルセミッツ”に乗り込み、勇躍アジアの大陸を目指して船出しました。
家族の見守る中で五色のテープが叙々に切れ、見送りに来た人々の姿も遠ざかっていきます。

“東南アジア自動車工業視察”名目だけは立派ですが、これは私の丁稚挙げた自動車会社に対する長期休暇願の名称です。
中身はただの海外旅行です。
永年夢に見たヒマラヤへ行くと言う、わたしにとっては最終目的がありました。
当時まだ海外に出掛ける人もまれで、留学とか学術調査とかでないと一般の人が海外へゆくためのビザの発行が認められませんでした。
しかしこの年うれしい事にオリンピックを日本で開催すると言うことで4月から海外へ出られることに成りました。
真っ先にビザを取り会社に長期休暇を申請しました。
上司も初めてのことであり私の熱意に打たれ許可を受理するよう、本社に働きかけてくれました。
おかげで、3ヶ月の休暇をいただきました。
もっとも、会社には3ヶ月毎に休暇の延期申請を住所不定、大使館着付けで、3回ほど出させて頂きました。
あとで充分上司にお詫びをし、その分成績を上げてお返はしましたが。
最初の目的地はセイロン(スリランカ)のコロンボです。16日間の船旅です。
私にとっては長いけど素晴らしい航海でした。(私にとってと言ったのは大半の人はインド洋の荒波でダウンしていたからです)
香港・シンガポール・サイゴンと停泊する港々では異国情緒たっぷりの街を歩き回りました。
ちょうどサイゴンの停泊中にトンキン湾で戦争が勃発し、遠くで花火のような音がし、あとで戦争がはじまったことを船内で知らされました。これがベトナム戦争の始まりだったのですね。
船旅、というと豪華客船で優雅な装いをしてというようなイメージがありますが、メッセンジャー・マルセミッツは当時、横浜に就航する、唯一の定期航路で貨客船といって、貨物の運搬が主で港々で荷役をするために、就航していました。ですから港へ着くと2、3日は観光のために下船することができます。
船内で初めて知り合った仲間と香港の桟橋に降り立ちました。むーとする暑さとむせ返るような異様な匂いが第一印象でした。俄か造りの仲間です。英会話も俄仕立てです。
初めて海外に飛び出した仲間ばかりです。
それでも、香港では筆談が出来ます。何とか手帳に“我望良食店”とか“我欲行虎公園”とか出鱈目の筆談で何とか通じたのを良いことに、何処行ってもペンと手帳を持って歩き回りました。でも、香港やシンガポールは何とか通用しましたが、サイゴンではちんぷんかんぷんでした。サイゴンはフランスの統治が長かったためフランス語かベトナム語しか通用しません。もっともベトナム語も流暢な発音ですのでフランス語で話しているようです。娘さんは真っ白なアオザイと呼ばれる服を着て日本の菅笠のような帽子をかぶっています。素敵な笑顔が印象的でした。
あのサイゴンの人々は間もなく、勃発したベトナム戦争によって多くの人が傷つき、倒れていったことでしょう。
もう一つ船旅の良いところは毎夜、映画会かダンスの集いがあります。しかし、映画はフランス語の字幕なしです。一生懸命見ていてもやっぱり疲れました。かといってダンスのつどいの方も自分たちは指をくわえて見ているしかありません。船員たちはこの時とばかりに真っ白な制服を着て、きれいな娘さんたちを片っ端からエスコートしてゆきます。
何故か日本人の女の子たちも、まともに踊れもしないのに、彼らにリードされるとうっとりとワルツやブルースを踊らされてしまいます。ただ指をくわえて馬鹿面してよだれをたらしているのは日本男子のみです。このとき決めました。“俺だって絶対ダンスをやるぞって”あまり見ているばかりだと、めげてしまうのでいい加減に引き上げて、一等船客専用のプールに忍び込んで泳いだり、デッキのチェアーに寝転んで本を読んだり時々、パーサーが回ってくると、本で顔を隠して寝たふりをきめこんでやり過ごしたりしました。
でも、インド洋に入って2、3は大荒れに荒れました。みんな別途の中にもぐりこんで、
オエー、オエーと呻いています。何故か私だけは三半規管が狂っているのかまったく船酔いがありません。食堂に行って船員と一緒に食事する仲になりました。そうそう、一等船客専用のプールは誰も来ないし、いくら大荒れに荒れても、少し波が立つくらいで快適でしたよ。
最初の目的地はセイロンのコロンボでした。わたしの家庭教師だったチャンドラ君の実家です。
彼の家で2ヶ月間を英会話のレッスンに明け暮れしました。
チャンドラは秀才で横浜国大に国費で留学し日本人のかみさんをもらっていました。
歳はかなりいっていたようですが、真っ黒で検討もつきませんでした。かれの言うことにはお前は普通のレッスンではとても見込みがない半年ぐらい英語圏のところでも行ってこないと駄目だろうと引導を渡されました。
そんな訳で彼の実家へ最初にもぐりこんだのです。

“トピ―が蟻で真っ黒”
セイロンのチャンドラさんの御宅は中流階級に属すると思われます。
60歳代と思われるタタ(御父さん)、熱心な仏教徒で太っ腹のアンマ(お母さん)。
チャンドラの弟の高校生のカンタシリ、妹は中学生のダイア、ちっちゃな可愛いピアスリ、叔父さんのアンクル(名前は分からない)それに御手伝いさんが二人、ドライバー兼執事役。
結構、大所帯なんです。
寝る部屋はそれほどなく夜中は二人のお手伝いさんは台所のタタキの隅で寝転がっていました。
薄いシーツにくるまって。
ある日、親戚の家で新築したのでお祝いに行くことになりました。
お酒もたらふくご馳走になり今夜はこちらに泊ることになりました。セイロンの生活は日本の明治時代を思わせるようでした。
6歳だと言う少女がこま使いで働いている。
おもに子供の遊び相手やこまごまとした世話をするみたいだ。
なんだか赤ちゃんが赤ちゃんのお守りをしている様でなんとも痛々しい、それに6歳と言っても痩せっぽちで、ちっちゃくて、4歳の坊主のほうがデブッチョで、でっかいくらいだ。
一度なんか庭でトイレをするのに、デブ餓鬼がウンコをするのを金属製の壺に水をいれて後ろからしっかけて、手で洗ってやっているのを見た、なんとも不憫で涙が出そうになった。
ぼくにも御茶を運だり、こまごまやってくれるんだが、なんだかこっちが辛くなってしまって仕方がなかった。
どこの家でも2、3人はお手伝いさんに子供の頃からあずかるらしい、もちろん教育は最低限しかしないようだし、給料も与えないようだ、盆暮れに里帰りする時にこざっぱりした洋服をきせ少しばかりの小使いを持たせるらしい。
こんなのって、日本でも昔の本で読んだことあるし、古い映画で見たようです。
子供たちに教えられたウンコの洗い方、すごく役に立ちました。
それと言うのもトイレットペ―パ―が街なかであまり売ってないのです。ホテルでたまに、かっぱらって来てもすぐなくなってします。子供たちのやりかたを試してみたら、やたら具合がよくて、毎日香辛料で焼け爛れたおしりがすっかりよくなってしまいました。
話は脱線しましたが、そのちいさくて可哀相な女の子、とても不憫でもどうすることも出来ず。おやすみの時そっとトピ―(インドの砂糖菓子)を紙に包んで持たせてやったんです。朝おきて着替えをし、ちょっと外の天気を見ようと窓際にたった時、そこに真っ黒な塊りを見つけました。それがなにかうようよと動いているようです。そうですそれは昨夜彼女の手の中にしっかり握られたはずのトピ―だったのです。
すっかり蟻たちをよろこばせていました。
何故・なぜ・な・・・ぜ?
いまだに分かりません。
わたしの考えの及ばないところの出来事なのですね。

“二度ある事は三度ある”
コロンボから車で30分南下したところにリゾート地がありました。見渡す限りの砂浜、椰子の林が延々と続く海辺。青い空に青い海、南洋独特の風景、日本のカレンダーにも登場したような景色です。
波は大きく白い波頭が打ち寄せている、わたしも独り波打ち際で遊んでいましたが、だれも泳いでいるようすがないのに気付きました。裕福そうな家族やホテルの宿泊客だけが水辺でパチャパチャやっているだけです。
このぐらいの波で。
わたしには自信がありました、子供の頃から毎年、三浦海岸の土曜波で波乗りを楽しんでいたので、さほど大きい波には思えなかった。よし、むかし取った杵柄で、日本男児 此処にありと言うところを見せてやろうと、打ち寄せる波に向かって抜き手をきって泳ぎだしました。2、3度波を泳ぎきると、あっという間に陸が遠くに、浜辺の人たちが小さく見えてきた。
ほんの一瞬と思っていたのに俺の泳ぎもまんざらではないなと真剣におもいました。
しかしその後が悪かった。
そろそろ帰ろうとして岸に向かったが思うように進んでくれない。それどころか岸へ戻ろうとすればするほどどんどん岸が遠逆って行くようです。
引き波がものすごくきつい、力んで泳げば泳ぐほどぜんぜん進まない、あせりにあせって体力も使いはたし、もうこれまでと思った。
走馬灯のように、いろんなことが思い出された。
最初に死にそこなったのは何時だったか、そう大学の山岳部の合宿中、北アルプス前穂高の岩峰に取り付いていた時、1mもある大きな岩を抱えたまま落っこちたっけ。気が付いたら岩だけゴロンゴロンと落下していった。
・車で3回転半をやった時もひどかったな、日本で始めてのグランプリだった。
・ エントリーしたら出走車の数が足りなくて、土素人の俺でも予選をクリアーしてしまった。
・ おかげでレース当日の最後のプラクティスで猛スピード。ガードレールに激突。大破。
・ 車がまん丸くなってしまって這い出るのに苦労したっけ。

そして2度あることは3度あるってやつか。
これが年貢の納め時かな。
薄ぼんやりした目で、沖の方を見渡してみた、遠くの方に船がみえた。そうだ岸にはいけなくても沖には行ける、とにかく船まで泳ぎ着こう。覚悟ができた。
立ち泳ぎで波を何度かやりすごした。そのうち白い波頭が近ずき、でっかい波がやってきた。
あっという間にもみくちゃになった。
あっという間に浜辺に打ち上げられた。
日本男児がおいおい泣いた。


リオちゃんどうだい、続きはまたね。
posted by 3020kuma at 17:16 | ☔ | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記
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